エピローグ-失楽-
 研ぎ澄まされる感覚/思考――鋼の様な心=手にした銃と同質の冷たさ。
 白んだ曇り空――灰色の錆びれた工場街。眼前に見据える相手――男=酷く薄い笑み/すらりとしてタイトな体躯/ゆったりとした、しかしながら僅かな隙さえ見せない構え/その手に握られたナイフ――ただひたすらに追い求め続けた仇――その姿。
 男の行動=こちらに向かって疾走――驚異的な初速+加速度=さながら人の形をした矢の如く。
 銃を構え――発砲/発砲/発砲。
 男=急激な制動/()()()()=サイドステップ――極めて鋭利な角度へと進路変更。あまりに人間離れした芸当に、音速を超えて飛来した弾丸がアスファルト/ビルの外壁/路上駐車中の車を削る&穿つ&破る――わずか二秒に満たない時間の経過。
 再び銃の照準を合わせる/合わせられず=男の跳びはねる様な+高速のジグザグ走行――その身体に施された非人道的改造&その成果=化学繊維による全身の筋力強化――瞬発的/恒久的運動の中で人並み外れた行動を実現=鋼鉄を粉砕する拳/壁を走る脚力/身体の無茶な行動をカバーする肉体の頑健さ。
 男の肉薄=ナイフ――その切っ先が風を切って鋭角に迫る。
 身を捻って回避/浅く裂かれる胸――構わず男に向けて発砲/はずす=すでに一定の距離を取っている男/次の瞬間には眼前に=再び振るわれるナイフ。避けきれず。後方に飛び退きながら左腕で身体を庇う――刃が肉に食い込む/引き裂かれる。
 全身を駆ける痛み――狂おしいほど鮮烈に=研ぎ澄まされた感覚/思考――その弊害。
 加速する時間の中で、ただ一時のみ緩やかな世界――舞い散る鮮血――赤く――紅く――赫=命――――――その輝き。
                    

 対化学・生物兵器特殊部隊の訓練で、事故が発生したみたい。なんでも、敵性の危険な化学兵器を想定される緊急事態時において速やかに処理する訓練だとか、なんだとか。まあ、詳しいことはわからないけれどね。上層部はいつだって、過失を認めるのが大嫌いだから。今回の情報だって、どこかの物好き達に語り継がれていく間で揉みくちゃにされた物が、たまたま私の耳に入っただけ。
 軍の施設の中でまことしやかにくだらない噂が流れるのはいつもの事。それは私たちにとって一種の娯楽でもあったし、凄惨な出来事を笑い話に転換するための手段でもあるの。
 けれど、今回のこの噂がもしも本当の事なのだとすれば、私も事態の解決に関係することになるかもしれない。
 事故によって化学物質の餌食になってしまった隊員の一人が、神経系をずたぼろにされてしまったんですって。本当に可哀想な人。噂が本当なら、彼は今、虫の息。
 軍部の科学者ったら、むごたらしいものでね。粘菌という単細胞生物の情報処理能力の高さを、人の神経系に応用することが出来ないか、なんて狂ったことを言って。私はその被験者。難しいことはわからないけれど、私の神経は頭の良い科学者さん達に弄り回されたおかげで、過敏なんて言葉の生ぬるさを笑ってしまいたくなるくらいに研ぎ澄まされているの。そんなことをして何の得があるのかずっと疑問だったけれど、私の身体から得られたデータが、生み出された技術が、ひょっとしたら可哀想な軍人さんを救うかもしれない。
 まあ、所詮は軍のモルモット。いつだって私は、事の成り行きをただ見守るだけ。
                     

 痛み=吐き気にも似て――自己の中心を指向する感覚。
 男から距離を取りつつ左手を握る/開く/握る/開く=波濤の如き激痛の連続/必要最低限には動かせる事を確認。
 状況の判断――乱立する工場の一つに駆け込みながら、緩やかに構える男に向かって発砲/発砲/発砲。男が射撃を回避する間に倉庫中へと滑り込む。
 薄暗がり――人気の失せた工場内。入り組んだ内部=男の機敏な動きを妨げる障害の数々。
 銃弾の再装填――静かに構えて男を待つ。
 耳を澄ます。押し寄せる感覚の波を振り払う。
 足音=()()()()()()――不意に背後からガラスを突き破る音。振り返る――吹き抜け構造の建物/その二階部分に影。
 発砲=立て続けに。男――驚異的な脚力/生み出される速度=壁を走って弾丸をかわす=想像を遥かに上回る速度&信じがたい光景。化け物じみた曲芸に翻弄され、壁を走り回る相手に弾の無駄撃ち。
 男――急激な進路変更/連射を中止したタイミングでの切り返すような襲撃=壁を蹴って放たれる猛烈な飛び蹴り。転がるようにして回避/元いた場所に突き刺さる男の蹴り――粉々に砕かれる床板。
 戦慄――人の形をした矢という印象を撤回。転がる身体に突き刺さる鋭い破片の数々=まるで人の形をした砲弾だと目を見張った。
 起き上がりざまに発砲。不安定になった足元に動きの鈍る男=身を屈める/飛び退く/物陰に転がり込む。
 男が見せた初めての綻び――俊敏な、しかし自慢の筋力とは無関係な回避行動/鍵=敵を葬るための。
                    

 ここ数日、施設の中は嫌な熱気に包まれていて、それは嫌に醜悪で退廃的な臭いであるとも言える。理由はとても簡単。皆、恐れ、疑い、戸惑っているの。そんな多くの人間が発する負の感情が、空気全体を歪めている。無理はないわよね。自軍の情勢が、いよいよ厳しくなってきたというんだから。
 ――――――敗戦。
 少し前から、景気の良い話をあまり聞いてはいなかった。徐々に、少しずつ、けれど確実に戦況が悪化しているという事には、きっと施設中の誰もが薄々気付いていたと思う。
 けれど、想像した最悪の可能性が現実味を帯びて押し寄せてきたとき、私達はただ混迷する事しか出来ないでいる。だって、そうよね。自国が敗戦した後に何が待ち受けているのか。そんなこと、想像は出来たとして、想定は決して出来ないもの。恐ろしすぎるわ。
 私だって、覚悟はおろか、心の整理すらまともに出来ていない人間の一人。おかしなものよね。まだ、敗戦が確定したわけではないのに。そんなことでは軍全体の士気が下がってしまう事はわかっているの。わかってはいるけれど、今の私にはマイナス思考の連鎖を断ち切ることが難しい。
 そんな中で、私はよく、施設の一区画に設置されたリハビリステーションを訪れている。気晴らしになるの。一生懸命に頑張り続ける、例の哀れな軍人さんを見ているとね。
 だけど今日は違った。そろそろ、誤魔化しも効かなくなり始めているのかもしれない。どうしてなのかはわからないけれど、自分の心の整理すら出来ない私には説明が出来ないのだけど、今日は彼を見ていると、何とも形容し難い思いが胸の内に沸き起こってくる。
「今日も大変そうね」
 そんな思いの一端が、思わず唇の間から零れ落ちた。額に滝の様な汗を流してそれでもまともに歩くことすら出来ず、引き裂かれるような感覚の波と格闘していた彼は離れた壁にもたれ掛かり、肩を大きく上下させながら横目に私を見た。思ったら、彼に言葉をかけるのはこれが初めてかもしれない。こうして、まともに視線を交えるのも。
 彼は静かに私を見据えていた。とても大柄の体躯、そして愛想のかけらもない厳めしい無表情。私と歳はそれほど変わらないはずなのに、まとう雰囲気はあまりに重い。普段だったら萎縮していたかもしれないけど、今日の私はなんだか違った。
「気晴らしにお話でもしましょうよ」いつになく饒舌に。「軍の状勢について、あなたは何か考えているのかしら?」
 私ったら、何を言ってるのかしら。自分で甚だ疑問だわ。
 彼は私から視線を逸らし、静かに目を瞑った。濃度の濃い吐息を、胸を大きく萎ませて吐き出す。全身を苛む痛みを、必死に飲み下そうとしているのがよくわかった。そうして彼は、小さく口を開く。
「我々は生きた歯車だ」暗く、低く、けれど胸の内を揺すぶる様な力強い声音。「国のために戦う歯車。あんただって、そうだろう。俺たちは、集団で考え、戦い、勝たねばならない。不必要な憶測は、我々を支える軸を軋ませるだけだ」
「最高の心構えね。けれど」
 だけれど。
「こう考えてはしまわない? 国が戦争に敗れたら、それまでの犠牲は何だったのかしら、とか」私って、本当に最低。「軍が起こした事故でこれだけ苦しめられてるあなただって、そう考えたら、なんだか遣る瀬無くはならないかしら?」
 再び彼が、横目で私を見据える。その瞳に映る、冷たく研ぎ澄まされた硬質な光。それは彼自身を傷つけてしまいそうな程に鋭くて、それだからこそ、彼を支える軸の頑強さを伺い知れた。
「命の恩人であるあんたに、そんな事を言われたくはなかったな」
「別に、あなたの命を救ったのは私の意志じゃないわ。上がそうしたの。私なんか、恩人でも何でもない」
「誰が俺を生かすと決めたかなんて、俺には関係の無いことだがな」無愛想に。「あんたという存在がいなければ、今俺はこうして生きてはいなかった。それだけのことだ」
 どうして、彼がそこまで冷静でいられるのかが私にはわからなかった。今彼の全身を襲う感覚の激流、その辛さを知っている私にも、彼の強さがどこにあるのかがわからなかった。
 音が、風が、光が、匂いが、この世にあるもの全てが、極度に研ぎ澄まされた神経系を未だ受け入れられないでいる彼の身体にとっては、苦痛以外のなにものでもない。世界がその一身に圧し迫る感覚。誰とも分かち合う事の出来ない、海の底へただただ沈んでゆく様な圧力と孤独感。私はこんなに平然としてなんかいられなかった。全身を走る血管の一筋一筋を(こそ)ぐ様な地獄を恨み、いっそこと死んでしまいたいと何度も思った。
 そんな技術の源である私を、憎むどころか恩人と言ってのける。私には信じられなかった。
「けれど、そのせいであなたも私と同じモルモットの仲間入りよ?」
「一度は自ら投げ出した命だ。今こうして息をしていられるだけで、十二分に幸福といったものだろう」
 投げ出した?
 いったい何が楽しくて彼に対し叩き付けているのかわからない悲観的な言葉の数々が、そのたった一言でものの見事に遮られた。今にも口を突いて出ようとしていた八つ当たりに等しい負の感情が胃の中に転げ落ち、懐疑に揺られたそれは好奇心へと昇華される。
「まるで、自殺願望でもあったみたいな言い方じゃない」
「まさか。そんなわけはない」小さく息を吐き、そして彼は瞑目した。「訓練中に事故が発生したあの時、俺は俺の命を(なげう)ったんだ」
「擲つって、それはどう言うこと?」
「難しい意味はない。俺一人の命と、俺以外の隊員全員の命。双方を天秤に掛けて、果たしてどちらがより重要であるか、それだけの話だ」
「庇ったってこと?」
 前のめりに尋ねる私へ、彼はただ静かに首肯した。私はいよいよ、彼という人物がよくわからなくなってしまった。
 自らの命を賭けて隊員の命を助けるというのが、軍人にとっては当然のことだというのかしら。直接戦火に曝されることはなく、ただ施設の中にあって、身体という資本を糧に比較的安全な毎日を送っている私に、その疑問についての答えを導き出すことは出来ない。
 けれどそれでも、今回彼が遭った事故が、ただ事では無いことくらいは私にもわかっていた。そして彼の今の言葉を聞く限りにおいて、その規模は私の想像していた惨事を遙かに上回る可能性だってある。
 その中で、彼は自らの命を擲ち、隊員の命を助け、その英雄は今こうして、酷く惨めな毎日を送っている。
「ど――――」妙に喉が震えた。彼の内に秘められた強さに、恐怖に近い思いさえ抱いていたのかもしれなかった。「どうして、そんな事を?」
「それが俺の選択だからだ」
「選択……?」
 彼の真摯(しんし)な眼差しが、真正面から私を見据えていた。迫力さえ伴うようなその眼光に、私は今度こそ自分が怖じ気付いていることを悟る。けれどそれ以上に、私は私自身が、私の内には存在しない確固たるその強さに、否応なく引かれているのを自覚した。
「もしも事故が起こったあの時、俺の起こせる行動の中に仲間を助けるという選択肢が初めから無かったなら――――ただ逃げる事しか出来なかったならば、俺はそれこそ地獄に突き落とされるような思いを味わっただろう。それは何故か? 選択肢が狭まるといった事は大概にして、自らの肉体的、あるいは精神的な弱さに起因するからだ」私に説いて聞かせるように――――自らしっかりと噛み絞める様に。「選択という行為が、俺らにとっては最大の安息なんだ。俺たちは自らの内に無数の選択肢が存在するのを眺めて、それらを好きな様に選ぶことの出来る自由を――――そして実行することが出来る己の強さを確かめる。全ての行いは自らが望んだ事であり、そこから起こる様々な事象にさえ、自らの選択で向き合ってゆける。そんな状態が――――そう考えられる事が、俺たちに何よりもの平穏をもたらしている」
「それだから、あなたは自分の命を擲って隊員を助けた?」
「自らの選択で仲間の命を助けられたのなら、それは人として本望だろう?」
 その物言いに、思わず笑ってしまったわ。彼の態度や言動は、彼自身がまるで一つの鋼鉄であるかの様に硬く、実直で。けれどそこには、研ぎ澄まされた鋼鉄のみが持つことを許される特有の輝き、そして人肌によく馴染む仄かな温もりさえ感じて取れて。
「それが、あなたの強さなのね」
 軽く手を振って彼は言う。
「単なる心の支えだ。弱さに(あらが)うためのな」
「それを強さと言うんじゃない」
「さて、どうだろう」
 手近な手すりを握りしめ、彼はゆっくりと立ち上がる。痛みに、自らの弱さに抗う様な平静さ。けれどその実、強張ったその首には幾重にも深い筋が浮かび上がって、その事が今、彼がどんなに苦しんでいるかを如実(にょじつ)に語っていた。
 けれど彼はこの先、身体を不自由なく扱えるようになった時、どのような運命を辿るのかしら。彼の身体はもう、普通の人間のそれとは大きく異なってしまっている。それはつまり、彼はもうこれまでの様な自由を失ってしまったことを意味している。
 苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、身体の自由を得たとしても、それは体の自由には繋がらない。
 それはやっぱり、悲しい事なのではないかしら。
 たとえその苦しみ自体が彼自身の意思による選択であるのだとしても、行動を起こす意味や意義を自らの中心に据え続けるその強さは時として、あまりに己を傷付けすぎる。
 頑強な鋼は、それでも寒さに凍え、熱に歪むのだから。
「先輩モルモットからのアドバイスよ」
 振り返り、彼は眉を吊り上げた。彼が感情を表情に表すところを、ひょっとしたら初めて見たかもしれない。どこか新鮮な感動にも似た物を覚えつつ、その事実がどれだけ危うい事なのかを考えると、変に心拍が荒れた。
「あなたは全ての感覚を自身の中だけで処理しようとしてしまってる。求心的なのよ。だけどそれでは駄目。そんな無茶をしていたら、神経を擦り減らしてどうにかなってしまうわ」
「……なら、どうすれば良い?」
「もっと遠心的に――――受動的な感覚の範囲を身体の外にまで拡張させるの。より広い範囲で感覚することで、体に雪崩込む情報量を軽減できる。周囲の物体を自分の体の一部と認識する、と言えばわかりやすいのかしら」
「あんた、自分が何を言っているかわかってるのか?」
 今に首を左右に振って呆れ始めそうな、口端を僅かに吊り上げる苦みの混じった渋い笑み。
 思わず私も笑ってしまったわ。それもそうよね。私の言っている事は、大概の人にとってはただの狂言にしか聞こえないもの。
「けれど、本当に気を付けて。私たちの神経系は、現在進行形で目まぐるしく成長を続けてるんだから。うまく付き合っていかなくちゃ、身体がもたないわ」
「そうか。なら、これからは先輩モルモットのありがたい助言に従うとしよう」
 適当にあしらう様に言って、彼はまた笑みを浮かべる。そしてまたゆっくりと歩き始める彼の背中を見て、ふと私は今日、ここに来た時に抱いていた陰鬱な気分が自然と晴れている事に気付いた。
 最後に笑ったのは一体いつだったか。そんなことを、ふと考えてしまったわ。
                     

 視線=射撃を回避した男が飛び込んだ物陰へと。敵の僅かな挙動さえ捉えるべく耳を澄ませ、滑らすように足を運ぶ。
 極めて冷静に――素早く物陰へと飛び込む/銃を構える。
 暗がり――男の影はなく。壁際に存在した出入り口/プレートの表示=〝扉のさき駐車区画〟/肝心の扉は蹴破られて跡形も無し。
 迅速に行動=扉の先へ――狭い通路/入り組んだ配管/光の失せた照明=男の奇襲――なし。
 通路の先=コンクリート壁に覆われた駐車場――工場所有重機の群れ/距離を隔て駐車された大型&小型一般車両/太くがっしりした柱の数々。相変わらず障害だらけ――先ほどとの違い=この中に男が身を潜めているという事実。
 ゆっくりと歩を進める――駐車区画中央まで到達したその瞬間。
 甲高い音=爆ぜる様に。跳ねる様に動いた右腕――銃口の先=無人の乗用車/激しく明滅するヘッドライト――盗難防止用のブザー/敵の誘導。
 焦燥――無音の緊張が招いた致命的ミス。
 影=視界のすぐそばを霞める様に。
 振り向きざまに振り下ろす銃床=空振り。そして襲い来る衝撃――銃床の一撃を悠々と屈んで避けた男の(したた)かなアッパーカット。
 直撃=思い切り仰け反る/身体が勝手に後ずさる/酷い耳鳴り/歪む視界――ぼんやり浮かぶ男の薄い笑み/酷く冷たく=そう簡単に終わらせはしないという意思。
   

 戦争が終結した後に待ち受ける自国の消耗を可能な限り軽減するため、私達の国は敵国の突き出した条件をのみ、白旗を掲げた。
 敵国が真っ先に執り行った政策は、我が国の軍部に対する規模の縮小。軍部の各所が綺麗に洗い流されてゆくなか、私がいる施設もまた、その流れの支流に呑み込まれた。
 周りのあらゆる人間が罰せられ、何らかの処断を下されてゆく中で、けれど私の様なモルモット達についての処分は、比較的緩いものだったかもしれない。それは考えてみれば当然のことで。私達は上層部の研究のために身を刻まれていたのであって、銃を握る事はおろか、戦場に立った事すらなかった立場の人間なのだから。
 けれど例の哀れな軍人さんについては、いろいろと揉め事が起こったとか。彼は元々、特殊部隊所属の〝軍人〟。本来なら何らかの処分が下される可能性も、完全に無いとは言えない立場だった。けれどそこで彼の身を守ったのが、事故によって破壊された神経系へと施された特殊な科学技術による治療。軍が起こした事故によって重度の障害を負った被害者という立場、そして今後更なる研究が必要とされる不完全な技術が施され、成功を果たした貴重な標本という立場が、彼への処遇を私へのそれと同等のものにまで引き下げた。
 そして私達は揃って、仮初めの自由を手に入れた。敵国が設けた機関の監視下に置かれる事を条件に、今後の詳細な動きが組まれるまでの間、私達は施設から解放された。
「街へ出るのだろう?」
 施設を出るまでにもう間もない頃、ふと彼は私に言った。
「ええ、そうね。けれど、ずっと施設の中で生きてきた身だから、何かと大変そうね。気が滅入ってしまうわ」
 施設の外へ出るとなって、私の気持ちは変に複雑な気持ちに捕らわれていた。これまで施設の中にいた私のような人間は、数か月に一度許される〝外出日〟以外に、施設の外へ出る機会なんてなかったし。それに私は、せっかくの外出日でさえ、いつも施設に留まり続けていた。だって、外の世界は〝普通の人間〟が住むべき場所。そんな世界に素肌を晒していると、どうしても自分の事が自分自身で異物であるように思えて仕方なくなるの。わざわざ入念な身体検査を受けてまでそんな気分を味わいに行く。それって、なんだか馬鹿らしいものね。
 そのせいで私は、外の世界の情報を、軍とは一線を画した集団である一般社会の情報をほとんど全く持ち合わせてはいなかった。
 束の間の自由を手に入れたという、何とも名状しがたい解放感。そしてあまりに不慣れな世界に飛び込まなければいけないという、身にしな垂れかかる様な緊張感。長期間投獄され続けた罪人がついに釈放された時の気分って、こんな物なのかしら。なんて、気を抜くと本気でそんな事を考え始める自分がおかしいわ。
「自分の身体をさえまともに動かせないよりは、よっぽどましだろう」
 そんな事を言って彼は、服の上から自分の逞しい腕を撫で上げる。
 最近では、彼も上手く自分の身体と付き合う事が出来ているみたい。私と彼が初めて言葉を交し合った時の様な不自由さを、今の彼からは見られない。本人に言わせれば、まだまだ自分の身体に違和感を感じ続けているらしいけど、一度は死にかけた人間がここまで恢復出来たのだから、その成長は純粋に素晴らしい事だわ。まったく、彼は自分自身に厳し過ぎるの。見ているこっちが参ってしまうくらいにはね。
「どうだろう」彼が私の顔を覗き込む。「街では、行動を共にしないか?」
 一瞬、何を言われたのかがわからなくなって。それから遅れて理解が追い付くと、思わず笑いが込み上げてきた。彼の怪訝そうな顔にいよいよ面白くなってしまって、私は笑い混じりに言った。
「あら。それはひょっとして、プロポーズのつもりなのかしら?」
「お前は俺みたいな男が好みなのか?」寄せた眉の皺がさらに深まる。「俺の神経系は未だに不安定なところが多い。何か予想外の事態が発生したとき、お前と一緒ならば対処もしやすいだろう?」
「ああ、そういう事ね」
 意地悪く笑ってみせると、彼は目を逸らして顔をしかめた。その反応が妙に面白可笑しくて、思わず声を出して笑ってしまう。あれだけ無表情だった彼が、こんな風に子供のような反応をするだなんて。本当、いつの間に私と彼との距離はここまで縮まったのかしら。
「先輩モルモットから教わらなければならない事が、まだまだ沢山あるからな」
 憮然として彼は言う。
「もう少し先輩を敬う態度を見せてくれたら、考えてあげてもよくってよ?」
「考えておこう」一呼吸おいて。「外の事だったら、俺がカバーする。ギブ・アンド・テイクだ。悪い話ではないはずだが?」
「色気のない誘い方ね」
「色気だったら余所をあたってくれ」
「まったくだわ」
 彼が見せる、ちょっとだけ口端を持ち上げる渋い笑み。
 まったく。
「素直じゃないのね」
 お互いに。
                 

 駆けだす――震える手に銃を握り締め。男の追随/薄い笑み=徐々に徐々に相手をいたぶる、肉食獣の嗜虐的な態度。
 小型乗用車の影に滑り込み、迫り来る男に向けて発砲=続けざま。男の余裕のステップ=()()()()()()――コンクリートの床を蹴る/柱の腹を蹴る/蹴る/蹴る。極めて立体的な行動範囲=乗用車の影へと回り込まれる。
 振るわれるナイフ/閃き。ボンネットの上に身を投げ出し回避――足元を掠める鋭い刃。身を起こしてすぐさま発砲――コンクリート壁に火花=ひらりと宙を舞う男の影――車体の上から離れるのよりも早く、フロントガラスにふわりと降り立つ/ゆらりと身を屈める。
 直感――跳躍/反射的=脇目も振らず後方へ。
 直後――男の拳=鋼鉄さえ砕きうる凶器が、腹の中央に突き込まれる/捻じ込まれる/刺し込まれる――事前の跳躍でさえ決して威力を殺し切れず。
 ぐるりと捻じれる視界――衝撃=頭/腹/背/腕/足――自分がコンクリートの床を勢いよく散々に跳ね回ったのだと理解した時には、胃の中身を吐き出して床の上をのた打ち回っていた。
                     

 私たちが街に出て少し経った頃、私のもとに軍の人間が現れた。
「記録を見た限り、あなたは施設からほとんど外に出た事が無かったようですが、いろいろ不慣れな事が多いのでは?」
「そうでもないわ。頼もしい後輩と行動を共にしているの」
「そうですか。それなら良かった」
 にっこりと。自然と肩にかかった力が抜けるような笑み。ゆったりと落ち着いたその物腰には、相手が設けた心の距離感を知らない内に曖昧にさせてしまう落ち着きがあって。けれど目を凝らせば、心を研ぎ澄ませば、この男が浮かべた笑顔、そこに宿る感情の希薄さは簡単に見抜けしまって。その薄い皮の先に存在する物を探ろうとする事が、あまりに恐ろしく感じられる隙の無い緩やかさ。
「それで?」自然と声が強張った。「私は何をすればいいのかしら」
「おや。まだ何もお話ししていないのに、たいへん協力的だ」
「これまでもこれからも、私はあなたたちのモルモット。私はそう認識しているのだけど、なにか間違いが?」
「いいえ」全てを包むような声音――鷹揚さ。「決してそんな事はない。あなたが協力的であればあるだけ、我々も助かります」
 そう言って男は居住まいを正すような仕草をし、腰かけた椅子の手前に座って身を乗り出す。しなやかであるとさえ言える身のこなし。
 最初からそこにいる事はわかっているのに、気付くと距離を詰められていた様に思えてしまって。そこに実在はしない、けれど確かな拘束力にも似た物を感じて、気付けば痛いほどに背筋へ力が入っていた。
 連想するのは、他には誰もいない部屋に佇む私と、机の上に一つ置かれた銃器。手で触れさえしなければ何ら問題は無いはずなのに、その鉄の塊に染み込んだ殺意がそっと息を詰まらせる様な感覚。
「それでは本題に入りましょう」男は言う。「簡単です。あなたには検診を受けて頂きたい。たったそれだけだ」
「…………検診?」
「その通り。あなたの身体の中には、非常に貴重な生体機構のデータが生きたままに組み込まれている。これらのデータをより多くの場で共有するために、言うなれば身体のコンディションを整えておくんです」男は微笑んだ――どこまでも酷薄で空虚な笑み。「たったそれだけの事です」

 男の跳躍――緩やかな弧を描いて/容易に想像の付く着地点=未だ起き上がれぬ標的。とっさの判断――感覚の麻痺した左腕を突き出す/ナイフを逆手に持ち替えた男の飛来=ほぼ同時。
 下腕に鈍い衝撃&焼ける様な痛み=深々と突き刺さったナイフ。
 男の頬を裂く様な笑み=握り込んだナイフへ更に力を込めてぐりぐりと捻る。
 霹靂にも似た痛覚の悲鳴=内壁を口外へ吐き出しそうなほどの胃の痙攣/気管を押し潰す様な首筋の緊張。叫ぶ事すら出来ず=口を開いた瞬間に自分の舌を噛み切ってしまいそうだという危機感。
 意識の全てを振り絞り、銃床で敵の腕を狙う。ナイフを引き抜き、一歩退いて男が銃床の一撃を回避したところをすかさず蹴り上げた。
 強かな手応え=男の頑強な肉体に食い込む渾身の蹴り。男が初めて見せる動揺の色――冷静な判断=蹴りの衝撃に逆らわず/反動を利用して左後方――乗用車の群れへ弧を描き跳躍。
 瞬間の閃き――手にした銃/空中の男/乗用車の群れ。
 即応=全身を走る痛みに身を裂く思いを抱きながら膝立ちへ。そして乗用車の群れに向かって速射/速射/速射。
 数多の弾丸がボンネットを次々と蜂の巣にしていった次の瞬間。
 爆裂=フロントエンジンへ銃弾が直撃=ガソリン+エンジンオイルに引火/めくるめく劫火&熱風の応酬――空中にあって軌道修正の効かない男=火の海へ。
 鼓膜をつんざく男の悲鳴=さながら断末魔。

 全てが曖昧に溶け合う水平線へと沈みゆく太陽。広く、深く、醒める様な空の青はいつしか、焦がれる様な淡い橙色に包まれていた。薫る潮の香りは私の髪を弄んで、頬を撫でるその涼やかさに上気した首筋がむず痒い。暮れる季節を謡う様な海鳥の声に、波間を浮かんでは消える音の粒子たちが寂しげに応える。
「もう夏は終わってしまうのね」
 人気も無く海を見下ろし続ける岸壁の淵に立って、私たちは雲の流れる様子を静かに見つめ続けていた。
「泳ぎたかったのか?」
 傍らに立った彼の言葉が、静かな風に乗せられて私の耳をくすぐった。私の頭より高い場所にある彼の横顔をそっと見上げる。鮮明な太陽の朱を淡々と見つめ続けていた彼が、ゆっくりと私へ振り返った。
 視線と視線が交差する。
「そうなのかもしれないわ。そうじゃないのかもしれない。けれど単純に、海に来るのだったら、季節は夏が良いわね」
「しかたないだろう。身体を大切にするべき時は、素直に安静にしているべきだ。海は決して逃げたりしない」
「ええ、そうね」
 私と彼との間を隔てる柔らかな斜陽。克明に照らし出された私の今の姿を見て、彼が何を思っているのかしら。不意にそんな事を考えてしまって、悲しいほどに暗い不安な気持ちが、揺れる波の様に荒れた。
 日差しの眩しい夏の季節に、私は体調を崩して倒れた。季節が移ろおうとするこの時期になっても、身体の調子は万全とは言い難い。
 私たちの神経系は常にめまぐるしく成長し続けている。純然な人間としての神経系と、科学技術によって操作された神経系とが身体の中で競合を起こし続け、また協合し続ける上で生まれる現象。そしてそんな事が一つの身体の中で起こっているのだから、時には体調にその影響が表出する事だって十分ありえる。
 これまでだって、神経系が著しい変化を起こす過程で体調を崩す事なんて何度もあった。そして今回の体調不良だって、これまで経験してきたものと同じ、一時的な症状だと思っていた。けれど最近、そんな考えに疑問を抱き始めている自分がいるのも事実。何故かしら。言葉にするのは難しいけれど、それこそ感覚的な領域の話になってしまうのだけど、どうしても今自分自身の身体に起きている事が、途方もなく取り返しのつかない何かに繋がっている様な気がしてしまって。
 そんな不安定な私の姿を見て、彼は何を思うのかしら。私は知っているの。彼が、一人で苦しみ喘ぎ続けていた過去の自分の前に現れた私に対して、少なからず恩信の念にも似た思いを抱き続けている事を。
私が彼という同類を見て安らぎを得たように、彼もまた私という同類を見て心の均衡を保ち続けていた。なのに、そんな私がこの様で、それは彼にとっては幻滅に値するのではないかしら?
 ――――いいえ、違う。違うの。本当はそんな事じゃない。私は素直になれないだけ。
 彼にそんな目で――――憐れむような目で見られたくはない。
 私は怖い。恐れている。もしもこの体調不良が神経系の成長に起因するものではなくて、もっと深刻で重要な事が身体の中で起きているのだとしたら。そして、その重大な事に気付けていないのだとしたら――――私はどうなってしまうの?
 そう考えてしまうと、息が詰まるほどの恐怖に襲われる。嫌だ。助けて。子供みたいにそんな事を言って、彼に縋り付きたくなる時だってある。
 けれど、そんな事をして彼を困らせてしまったら?
 矛盾した考えだって事はわかってるの。だけど、もしも私が縋り付けば、彼が空恐ろしいまでの寡黙さと実直さで私のために動いてしまう事が容易に想像出来てしまって。
 彼はきっと、自分の身より私の事を第一に考える。
 私はそれが、その事が、とても嬉しくて、とても頼もしくて、とても悲しくて、とても恐ろしくて。
 不安さえ吐露する事が出来ないまま、心はただただ軋み続けるの。
「また来年、来れば良い。いいや、必ず来よう」
 彼の優しい言葉さえ、今は私を酷く苛む。そんな言葉をかけられたら、私は自分がどうすればいいのかわからなくなってしまう。
 心配されたくて、心配されたくなくて。
 彼と対等でありたくて、彼に支えてもらいたくて。
「それは」素直になれない私って――――本当に最低。「私が望むからそうするの?」
「いいや、違う」彼は笑った。深く、重く、確かな温もりを秘めた渋い笑み。「俺たち二人で望むからそうするんだ」
 心が叫ぶ――ああ、私にそんな言葉をかけないで。
 優しさを求めずに、けれど確実な事実が欲しくて。
 気付けば握りしめていた彼の手の平に、()める事のない熱を感じた。

 全身を炙る様な熱波。力の抜けた右腕が、糸を切られた操り人形の様にだらりと垂れた。左手/指の一本も動かす事が出来ず=深く抉られた様な傷痕――鮮血=止め処なく。
 鉄の焼ける焦げ臭さの中で、着実に体温を失いつつある身体。肩の緊張を解いた瞬間、瞬く間に押し寄せる極度の疲労。
 揺れる視界/軋む体/震える四肢――ささやかな/何より重みのある実感=今ここに生きている。
 思い=追想――これまで歩んできた道のり。
 想い=追憶――失われた者への静かな祈り。
 立ち上がり、最後にもう一度だけ見つめる。
 炎――どれだけこの光景を追い求めた事か。
 背を向け――自/他、全ての過去との決別。
 歩み出す=全て終わったのだという空虚さ。
 背後に聞く炎の音――轟々と。
 そして不意に足音。振り返る――その瞬間。
 轟音/金属の(ひしゃ)げる音=宙を大きく舞う大型乗用車――すぐ真横の柱に衝突。慌てて重機の陰に飛び込む――直後/ガソリンに引火=至近距離での大爆発。
 激震=背を押し当てた重機から伝わる爆圧の苛烈さ。混乱する思考を無理やり束ね、乗用車が飛んできた方向――男が没した火の海へ視線を巡らす。
 猛り狂う炎の渦、その中心。乗用車が存在した場所=ぽっかりと空いたスペース。
 ゆらりと動く影=酷く緩慢な、しかし着実な歩み。一歩/一歩/一歩/一歩――そして露わになるその姿=焼け爛れた全身/燃え上がった髪/溶けた頬肉が生み出す醜悪な笑み/破れた皮膚の下に覗ける、業火に焼かれてもなお頑健な、特殊な化学繊維による骨格筋。
 恐怖――この世のものとは思えぬその容姿&生命力。
 そして理解=敵は炎の中へ投げ込まれても更に動き続け、大型の乗用車をこちらに向いその馬鹿げた腕力でもって殴り飛ばした。
 次に起こすべき行動を考えるより先に、これまで以上の速度で男が接近。
 成す術もなく=肘より先がまともに動かない左腕を振り上げるも、その肩口に深々とナイフを突き立てられる。全身の神経を擦り上げる様な痛み――左腕全体から感覚が消え、だらりと重たい肉塊と化す。
 右手に握った銃――構えかけて一瞬の逡巡=左腕が使えない今、銃弾の装填は出来るのか=脳裏に浮かぶ僅かな残弾数=一瞬で、しかし決定的な空白の時間。
 男――容赦のない蹴り/頭部を血の霧にさえ変えかねない一撃=がら空きのこめかみへ叩き込まれた。
                     

 全ての繋がりが断たれてゆく感覚。高く響いてくる足音。それを伝える世界の色さえ、今は私から距離を置こうとしていた。
 あれから、私の体調は加速度的に悪化していった。秋の涼やかさが世間に別れを告げるよりも前に、私は世界から別れを告げるだろう。日に日に増していたそんな予感が、いよいよ的中してしまったみたい。
一度宙に解かれた鳥は、全てを失った後で溶けてゆく。中空(ちゅうくう)の体はただただ落ちてゆく事しか知らず。爆ぜて、弾けて、発する飛沫。
 虚耗――光明はただ鈍く。
 虚構――暗闇はただ鋭く。
「しっかりしろ。しっかりするんだ」
 駆け付けた彼の声。今は何よりも愛おしい。差し伸べた手。感じる温もり。包まれて。
「あなたらしくないわ。そんな顔をしないで」
 悲愴――私の横たわるベッドにしがみ付く彼。
「お前こそ。そんな顔をして、らしくないぞ」
「あら。私、今どんな顔をしてるのかしら?」
「辛そうだ。そして悲しそうだ」
 悲壮――届く事のない物を掴もうとする様に握り締められる手。
「私って、いつもはどんな顔をしていたの?」
「笑っていた。楽しそうに、意地悪そうに、強気に、幸せそうに」
「それは、あなたがいたからよ」
「ならばこれからも居続けよう」
「残念だけれど、それは不可能だと思うわ」
「不可能だと思うから不可能なんだ。そんな弱気でいてはいけない」
「あなたは強いわね」
「俺は強くなんかない。今の俺には、こうやってお前の傍にいる事しか出来ない」
「それを、強さというのよ」
「――――――」
「私はきっと、もうすぐにあなたの温もりすら感覚する事が出来なくなるわ」
「そんな事はない。ここを乗り切れば軍部が必ずお前の事を――――」
「そんな顔をしてはダメよ」
「だ、だが――――」
「笑って。私、あなたの笑顔がとっても好きよ」
 悲傷――深く重く、何にも替え難いほどに温かな渋い笑み。
「笑ってるあなたって、とっても素敵だわ」
「ならば俺は笑い続ける」
「無愛想なあなたもなかなか素敵ね」
「ならば俺は――――」
「少し拗ねた様なあなたも良いわ」
「勘弁してくれ。注文が多すぎる。そんな多くの注文に応えるには、まだまだ時間が必要だ」
「けれど、私に時間はもうないわ」
「駄目だ。注文をしたからには、最後まで見届けてもらわなくてはならない。お前にはその義務がある。来年には海にだって行かなくてはならない。そうだろう?」
「ごめんなさいね」
「どうしてそこで謝るんだ」
 飛翔――内外の境界が熔けて、自己が無限に融けてゆく感覚。
「お願いよ。私がいなくても、今まで通りのあなたでい続けて」
「お前は決していなくならない。決して、決して――――」
 炸裂――命――振幅――その頂点――最期の輝き。
 私は笑った。
 あなたといる事の喜びを。
 あなたにしか見せない無邪気さを。
 あなただからぶつける感情を。
 あなたに逢えた幸福を。
 全てを愛おしく包んで告げる最初で最後の告白の言葉。
 ――――――愛してる。
 私の名前を叫ぶ声。
 暗転――全てが断たれ、そして世界と繋がる感覚。
 あなたも、こんな感覚を味わったの?
 とても暗くて、だけれど――――温かい。
                     

 奔走――哀れな軍人の情報収集――事の真相。
 降伏――戦争の終結――敵国の要請――〝特殊な科学技術の提供〟――進んで行われる人体実験――その被検体――全世界でも数少ない成功例。
 自国の意見――意地――〝他国を凌駕した技術を簡単に渡せない〟――全てを奪われる事への恐怖――賛否両論――軍部内での苛烈な衝突――末期的な混乱――密かに始まる暴走――愚考――〝既存の被検体を抹消せよ〟――〝技術データ開示を条件に敵国と交渉を〟――上層――その一部によるアンダー・グラウンドとの結託。
 被害――その一つ――神経系を操作された女――〝検診〟――内実――神経伝達物質を分解する酵素の極端な抑制――常に成長し、膨大な情報量を処理し続ける神経――その暴走――結果――内側から腐ってゆく身体。
 浮かび上がる背景――身体改造が施された被検体からなる集団の存在――上層部との繋がり。
 理解――恐怖――〝敵国に身柄を渡されたくはない〟――自己防衛――〝交渉による安全の確保を〟――暴走――〝敵国に従順な被検体は交渉の邪魔になる〟。
 敵国の動き――アンダー・グラウンドへの攻撃――結託した一部の上層部を処分――その例外――淘汰の流れを掻い潜った存在――さらなる暗闇へ逃げ込んだ存在――一人の〝男〟――実行犯グループの筆頭――〝女〟に接触したという情報――すなわち――仇。
 奔走――復讐を誓った哀れな軍人――堕ちてゆく――ただ暗闇へと。
                     

 ――――今日も大変そうね。
 さて、どうだろう。
 ――――なんだか追い込まれてるみたいね。
 お前にはそう見えるのか?
 ――――そうなのかもしれないわ。
 勘弁してくれ。
 ――――そうじゃないのかもしれない。
 自分が何を言っているかわかってるのか?
 ――――私、今どんな顔をしてるのかしら?
 笑っているよ、意地悪くな。
 ――――あなたを苛めるのって、楽しいわ。
 そんな事を言われたくはなかったな。
 ――――もう少し頑張るの?
 しかたないだろう。
 ――――それはどうして?
 それが俺の選択だからだ。
 ――――それが、あなたの強さなのね。
 俺にはやらなくてはならない事があるからな。
 ――――身体がもたないわ。
 一度は自ら投げ出した命だ。
 ――――無茶をしていたら、どうにかなってしまうわ。
 なに、そう難しい事ではない。
 ――――あなたは強いわね。
 あんただって、そうだろう。
 ――――さて、どうかしら?
 楽しそうだな。
 ――――先輩モルモットからのアドバイスよ。
 どうすれば良い?
 ――――もっと遠心的に、受動的な感覚の範囲を身体の外にまで拡張させるの。
 難しい意味はない。
 ――――ええ、その通り。
 なら、先輩モルモットのありがたい助言に従うとしよう。
 ――――最高の心構えね。
 最期に一つ、言っておきたい事がある。
 ――――何かしら。
 お前といられた事が、俺にとっては何よりも幸福だった。
 ――――それはひょっとして、プロポーズのつもりなのかしら?
 そのつもりだ。
 ――――とっても素敵だわ。
 あんたという存在がいなければ、今俺はこうして生きてはいなかった。
 ――――怖い事を言うわね。
 だが、それが真実だ。
 ――――最期に、私からも言いたい事があるの。
 これが最期だ、聞いておこう。
 ――――****。
                     

 覚醒=周囲の全てを自身の一部と認識するような鮮明さ。
 赤く染まる視界/紅く燃える世界――仇の強く地面を踏み締める仕草。
 握りしめた銃――銃弾×五=最期に残された全ての力。
 瞳を閉じた――ただ感覚だけを受容する=世界がその一身に圧し迫る感覚/誰とも分かち合う事の出来ない、海の底へただただ沈んでゆく様な圧力と孤独感――その全てを飲み込んで――――ただ超克だけを望み=内外の境界が熔けて、自己が無限に融けてゆく。
 男の踏み出す音。
 瞬間――前方に銃口を構え発砲。
 着弾音/フロントガラスの割れる音――高く響く足音=()()()()()()
 幻視=戦闘中に聴覚&視覚情報から得た敵の攻撃/行動のクセによって脳裏に映る鮮明なその動き――自慢の脚力で壁を蹴ってのぼる姿。
 音のする方向――右手の壁に向けて発砲。
 着弾音/コンクリートの削れる音――高く響く足音=()()()()()()
 更なる幻視――床/柱を蹴って立体的に背後へ回り込む姿。
 反射――振り向きざま、背後に銃を突き付けて発砲。
 着弾音/銃弾の鋼鉄を穿つ音――高く響く足音=()()()()
 更なる幻視――サイドステップにより極めて鋭利な角度へと進路を変更させる姿。
 一瞬の空白――そして豁然(かつぜん)と瞳を開いた。
 飛び込んできた光景=()()()()()()()――()()()()()()()()()()()()()()()()
 炎の光を受け艶やかに輝く刃――避ける事もせず/ただ真っ直ぐに=肉を裂き、深々と胸に突き刺さった。
 男の瞠目(どうもく)――ナイフを握り締めた腕、その肩口へ零距離から銃弾を撃ち込む/頑強な骨格筋を突き破る/肩の骨を砕いた所で失速する銃弾=肉を内側から食い千切る高熱源。
 絶叫=激痛=腕に力が入らず=ナイフを引き抜く事が出来ず=距離を置く事が出来ず。
 握りしめた銃――残された銃弾=最期の一撃。
 全てを終末へと誘う祈りにかえて――男の顔面/恐怖に見開かれたその瞳へ、ただ静かに引き金を引いた。


 暗転――全てが断たれ、そして世界と繋がる感覚。
 この感覚の先に、果たしてお前はいるのだろうか。
 どこまでも暗く――――ただ奈落へと堕ちてゆく。
これを公開した時点(2016/10/08)から、およそ四年前に書いた作品になります。
自称SF好きの千悠が初めて挑戦したSF作品。自分自身が理想とするSF像を描き出すために、当時持っていたおよそ全てを注ぎ込んだ作品じゃないでしょうか。とはいえ、決して褒められた出来栄えではないのですが(笑)
いろいろと未熟だなぁ、と感じる反面、当時よりは多少成長した(と思いたい!)今読み返してみると、よく頑張ったなぁ、と感じる表現なんかもところどころにあり、若干の焦りが。
頑張らなくては。